サムソン高橋が話題の本をレビューする「サムソン高橋 毒書架」。
第二回はゲイ漫画の巨匠 田亀源五郎の「弟の夫」を読みました。
なんでも先日の、文芸誌すばるのレビューが一部で好評だったそうで、また書評をやってもらいたいと呼び出された。
そこで、手渡された2冊の本がこれだ。
弟の夫/田亀源五郎 1巻・2巻
弥一と夏菜、父娘二人暮らしの家に、
マイクと名乗る男がカナダからやってきた。
マイクは、弥一の双子の弟の結婚相手だった。
「パパに双子の弟がいたの?」
「男同士で結婚ってできるの?」
幼い夏菜は突如あらわれたカナダ人の“おじさん”に大興奮。
弥一と、“弟の夫”マイクの物語が始まる……
これは荷が重い。
ゲイ漫画界の巨匠、田亀源五郎様である。
24会館に行くたびに毎回風呂場の壁画に手を合わせる程度に、私には畏れ多い存在だ。
何より、田亀氏はインタビューや『映画秘宝』などでうかがえるように、きわめて博識で理知的で、批評家としても一流だ。
無職のおじさんが何か物申せる雰囲気ではない。
もともと、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した、非常に評価の高い漫画である。
私が何か言わなくてもすでにノンケ世界でも絶賛されている。
そして私は、もちろんこの作品のことを知っていながらも、まだ読んではいなかった。
ゲイの中でもそういう人は多いのではないだろうか。
田亀源五郎といえば、ゲイ漫画のひとつを極めた作家だからだ。
いや、ゲイ漫画という狭い枠組みではない、漫画表現のひとつを極めた作家だ。
『君よ知るや南の獄』『銀の華』などは、ちょっと比類する作品を他に思いつくことができない。
それらは、にじみ出る血がガーネットで作られたアラベスクの装飾品のように、そして体内の粘膜がサーモン・ピンクの薔薇の花弁のように思えるほどに、残虐と淫乱を芸術に昇華した作品だ。
そう、私たちが良く知る田亀源五郎作品といえば、むくつけき男どもがむせかえるような雄の臭いを血と汗と欲望とともにまき散らす、ゴシック的と言ってもいい、ハードコアなSMものだった。
私の趣向とはやや違うので、個人的に田亀作品をエロティックなものとして読んだことはない。
失礼な話かもしれないが、脳内のジャンルとしては、氏の作品は丸尾末広や花輪和一と一緒の本棚におさめられている。
ゲイではない人にも田亀作品が届いたのは、ひとえにそのクオリティの高さと、エクストリームな作風にあるだろう。
それが今度はゲイを絡めたホームドラマを一般誌で連載するという。
その知らせを聞いて、どこか面はゆい気持ちになったのは私だけではないだろう。
ハッテン場であられもなくアンアン喚いてた親父が、何気ない顔でポロシャツ姿でイオンでお買い物してるのを見てしまったような、そんな居心地の悪さを感じてしまったのである。
『弟の夫』一巻二巻を読み始めたのは、呼び出され手渡されてから一週間後のことだった。
『弟の夫』を読みながら、どうして田亀源五郎がゲイ漫画を代表する巨匠と呼ばれているか考えていた。
氏の作品はゲイの一つのプロトタイプではあるが、メインストリームではない。
SMというジャンルも好き嫌いはわかれるところだ。
もちろん、ゲイ漫画が作品としてほとんど認められることのない30年前から、前例のほとんどないところで、ずっと第一線でクオリティの高い作品を発表し続けてきたことが一番の理由だろう。
だがそれよりも、自分の作品に全身全霊の愛情を注いでいることが氏が支持される最も大きな理由なのではないか。
どういう状況であっても、作品を自分のもとにたぐり寄せ、好きなことを本気で描いている。
誠実で真面目で、妥協や手を抜いたところがひとつもない。失敗作はあっても駄作はない。
これはちょっと真似できないことだ。
初の一般誌での、もちろんエロ抜きでの本格的連載で、ひょっとしたら「妥協」を感じさせるものかもしれない、と思ったのが私が『弟の夫』を読むのに躊躇した主な理由だった。
それは杞憂だった。
氏は誠実に真面目に、作品のテーマをたぐり寄せ、がっぷり四つに取り組んでいた。
『弟の夫』は、「ゲイ漫画」ではなくて「LGBT漫画」というジャンルになるかもしれない。
私が「ゲイ」「レズビアン」などではなくて「LGBT」という言葉を使うときは、「いいかっこうしいで適当に穏便に済ませたいとき」という場合もあるのだが、基本「少数派の人権問題」という意識があったときに使用する。
いわゆる世間様というやつにゲイが入り込んだら、多数派の中に少数派がまぎれ込んだら、どういう対応を迫られるか。『弟の夫』はそういう漫画だ。
それは、ゲイに限った話ではないだろう。
私たちだって、ゲイという閉じられた世界の中で多数派を気取り逆に少数派を軽んじたりということは、日常的にあるのである。
主人公の弥一が「いわゆる世間様」を体現している。
亡くなった弟の夫を日常に迎え入れることで、ノンケの彼のうちに無意識にあるホモフォビア–とまどいや性的対象にされるんじゃないかという恐れなど–が顕在化され、物語が進んでいくうちに、いい方向に消化されていく。
この作品に個人的な不満がないわけではない。
キャラクターはステレオタイプで、展開は予想通りで逸脱がない。
弥一は先も言ったように、ごく一般的な日本人の体現だ。
マイクはひたすら「善い人」であるし、
「男同士で結婚できるの?」
「どっちが旦那さんでどっちが奥さんなの?」
などと無邪気な質問をする娘の夏菜は、ひたすら「純粋なるもの」である。
丁寧だが、教科書的に感じる場面もある。
しかしその不満から、改めて私はこの作品の意義に気付いた。
田亀氏は、きっちりした「土台」を作ろうとしているのではないだろうか。
昔の話である。
フケ専デブ専の私はフケ専デブ専ゲイ雑誌『サムソン』の編集をやっていて、そこでよく『バディ』や『G-men』をおちょくっていた。
「なにが『ボクらのハッピーゲイライフ』だよ」
とかいう調子だったのだ。
少数派の中の少数派だったから、最初から皮肉でしか物を見られなかったのだ。
そこで、当時『バディ』編集長の小倉東氏からこっぴどく怒られたのを覚えている。
「土台を作らなきゃ、それを批判なんてできないでしょ!」
あれから20年近くが過ぎた。
今ではLGBTという言葉も市民権を得て、一見土台らしきものができたように見える。
が、先の一橋大学での事件でも感じたことだが、その土台はしっかりしたものだっただろうか。
『弟の夫』に関するインタビューで、田亀氏は、
「講談社で一度話が通りそうだったけどぽしゃって、そのあとにその雑誌でゲイが主人公の連載がはじまって落胆した」
というようなことをおっしゃっていた。
これはおそらくよしながふみの『きのう何食べた?』ではないかと思う。
あれは本当に上手くて面白い作品だが、「傍流の作品」だと思う。
ゲイであることがニッチの面白さとイコールの作品だと思う。
今まで一般誌でゲイを取り上げた漫画はたくさん載ってきたが、「土台」になるような作品はなかったんじゃないだろうか。
秋里和国は80年代にHIVをテーマに含んだゲイ漫画を描いていて、きわめて先進的だったが、あれも傍流だ。
私も熊田プウ助氏といっしょに単行本を5冊ほど出させていただいてるが、あれなんかニッチもニッチ、傍流も傍流である。
田亀氏は、この日本にLGBTの基礎をちゃんと作ろう、土台を作ろうとしてこの『弟の夫』を描いているのではないだろうか。
『弟の夫』の二巻目のラストでは、ゲイであることに悩む少年が出てくる。
これもステレオタイプで、温かいが予想の付く(=傷つく者が最小限の)流れだが、例えば一橋大学の事件で、周りの人や本人がこの作品を読んでいたらどうだっただろうか、と思わざるを得ない。
今からでも遅くない。
例えば、図書館や学校の本棚に、この作品が所蔵されることを望む。
この作品を読むことで勇気づけられたり、自然な形で差別意識を改めたりする人は、きっといる。
蛇足だが、カバーを取ったときにちょっとニヤリとする絵が出てくるので、ファンの方は単行本をちゃんと買ったほうがいい。
あと、この作品ではいつも以上に映画を意識した画作りになっているように思うのだが、実写化も期待していいのではないだろうか。
泥酔したマイクが弥一を涼二と見間違えて抱きしめるという、ノンケ・ゲイともにちょっとドキッとする場面があるのだが、その後に今まで涼二の死を実感していなかった弥一が瞳を潤ませるのを、夜空のにじみで表現した場面は出色である。
弟の夫
著:田亀源五郎
発行:双葉社
第一巻
定価:本体620円+税
ISBN 978-4-575-84625-6
第二巻
定価:本体620円+税
ISBN 978-4-575-84741-3