※前回記事
HIV末期の彼「ここから飛び降りたら…」
「ここから飛び降りたら…楽になれるかな?」
綺麗な冬晴れの空が広がる窓、そこから身を投げたいと彼は呟いたのです。彼と私の二人だけの病室はいつもよりさらに静かになり、酸素や機械の音だけが何の感情もなく規則的に流れ続けました。自ら命を終えたいというその言葉は力なくか細い声なのにやけにはっきりと聴こえて、私は恐ろしくて指先が冷たくなっていくのがわかりました。窓は大きくは開かず、飛び降りるのは無理である事にしばらくしてから気付きましたが、彼はそれを知りながらもこの病苦から解放されたくて仕方なかったのでしょう。
余命宣告を受けていた…?
今にして思えば、彼は余命宣告を受けていたのではないかと思えます。私は退院できる日がいつか来るだろうと信じて毎日来ていましたが、先を知る彼は疲れ果て回復を願っている私の気持ちさえも重荷に感じていたのかもしれません。残りわずかの命であるとわかっていたのならば全てを言って欲しかった気もしますが、その時の私が受け止められたか自信はなく、揺れ動く私に言わなかったのはこれ以上の負担を与えないようにとの彼の最後の優しさだったのでしょうか。しかしそれも全ては時が流れ去った今だから思える事で、二人の楽しい日々も大切な命も戻る事はありません。
できる限りの事をしているのにどうしてそんな事を言うのだろう。本人が一番苦しいのはわかっていたのですが、彼を心の中で責めてしまったのです。そんな考えが身勝手である事もわかっていたし、目の前で虚ろな目をして動けない彼に言えるわけもなく、私はどう気持ちを整えてよいかわからず黙り込み、いつの間にか涙が流れ出していました。顔を歪ませる私を見て、彼も馬鹿な事を言ってしまったと思ったようでした。入院をしてから10日ほどしか経っていないのに、すでに陰鬱な空気が病室にも心にも溢れていて、この日はお互い不安に思っていた様々な気持ちが噴き出し、それを止める力はどちらにもありませんでした。
自分もHIV検査へ
HIVを感染させているかもしれないから検査に行って欲しいと以前から言われていたのですが、予約をしていたのがこの日だったので、私は早めに病室を出られる事にどこか安心してしまいました。病気そのもので苦しんでいるだけでなく、感じていながら決して思わないようにしていた死の影を彼が自ら口にした事があまりに辛く、そしてそんな彼をうまく助けられない自分が情けなくて仕方ありませんでした。泣いたとわかるような顔を俯く事で隠しながら、私は新宿駅近くにある東京都南新宿検査・相談室で検査を受けました。新宿二丁目に遊びに来るために数え切れないほど訪れている駅なのに、そのすぐそばに検査を受けられる場所がある事を全く知りませんでした。
匿名で受ける代わりに4ケタの好きな数字を書くのですが、私はそこに自然と彼の誕生日を入れました。初めての検査で緊張していたので、その数字を意識をして書いたわけではなかったのですが、彼をそばに感じていたいと言う思いの表れだったのかもしれません。検査が終わった後に申込書の控えを渡され、これを持って1週間後に結果を聴きにくるようにと案内をされました。彼を苦しめる病気をもっと知るために、私は待合室に置かれていたHIV/AIDS関連のパンフレットを順に取り、結果を知るための大切な紙と一緒にバッグに入れて街へ戻ると、静かだった検査室とはまるで違う新宿の雑踏が襲ってきました。目の前を行き交う人の中にHIVである事を誰にも言えず独りで抱えている人がいるのではないか、検査室を出たその時から街が違って見えてきました。少し前は病気で苦しんでいる彼を見た直後だったので、他の人達がすべて健康でありとても幸せそうに思えましたが、もしかしたら見えない病気や障害を抱えてそれを悟られないように生きているのかもしれない、そんな事を思えるようになりました。
不安と決意
1週間後の結果で私も陽性だったらどうなるのだろう。それを悟られないように誰にも言わずに生きていけるのかとても想像ができません。今のところは体に不調がないので、もし陽性だったとしても薬を飲み続ければ大丈夫なのかもしれないけれど、彼を支えていくのならば、今後は生活を始めいろいろな事を考え直さなければいけなくなります。
一緒に暮らしていくとしたら、私は住む場所が変わる事を親に言わなくてはいけません。その時に男性と一緒に住むとだけ言って終わる事は無理で、もしかしたらゲイである事も告げなくてはならず、それが受け入れられたとしても、相手の事を聴かれたのならば病気だという事も伝えなければならないかもしれません。HIVであるという所までは言わなくても大丈夫なのか、検査結果によってはもしかしたら私自身がHIVであるかもしれないし、何かの時のために親には知らせておいた方がよいのか、気掛かりな事が絶え間なく浮かんできて気が遠くなりそうでした。
しかし私が支えなければ誰が彼の面倒を見るのかと思い直しました。今日は思いがけず泣いてしまったけれど、彼のためにできる事をしていこう、もう俯かないようにしようと心に決めました。決意や微かな希望が寒い風で凍らないように、明日からのために、私は足早に新宿を去りました。
つづく