LGBTのえらい人に会ってみようシリーズ:1 北丸雄二氏に話を聞いてみる(前編)

※LGBTのえらい人に会ってみようシリーズとは?

ゲイ雑誌「サムソン」編集部出身のサムソン高橋と、「G-men」出身のitaruにとっては、セクシュアル・マイノリティであることを公表して、真面目な仕事や活動に取り組んでおられる皆様は近寄りがたいような畏怖の念と、だからこそ茶化してしまわずにはいられないような複雑な感情を抱き続けています。しかし、お互いアラフィフの「いい大人」というか「どう見ても中年」にもなって、そんな態度ではイカンと気持ちを改めました。
そこで、一方的な苦手意識を克服すべく、僕らが勝手に畏怖の念を抱いている「えらい」皆様に片っ端から直接お会いしてみようと決意しました。

そうです、この企画は、「どう見ても中年」の駄目な2人が「立派な爺さん」になるための壮大な旅なのです!

第一弾は度胸試しとして、もっとも怖い(と勝手に思っている)人にお会いすることにしました。
ニューヨークと日本を行き来して活躍され続けている大先輩、ジャーナリストの北丸雄二さんに会いに行きました!

カミングアウトは動名詞なんだけど、現在進行形でもある

北丸雄二氏は、NY在住のジャーナリストである(トランプ勝利のアメリカを見限って、日本に戻ってくることを検討中だそうだが)。
日米を行き来している当事者として、地に足がついた社会・政治に関する評論をさせたら、一般界隈でも町山智浩氏に並ぶ存在ではないだろうか。
そしてLGBT界隈では、北丸氏は誰にも先がけて、アメリカを中心とした世界的なLGBT関連情報を日本に紹介してきた存在として知られる。
今のようにネットが普及していない時代に、北丸氏がバディ誌に書いていた連載で世界のLGBTの動向を学んだ方も多いんじゃないかと思う。

女性誌クレアが91年にゲイ特集をしたことがきっかけで日本のゲイ・ムーブメントが始まったとされるが、90年に出版されたアメリカのゲイ小説『フロント・ランナー』はその前哨戦だったかもしれない。そのテキストを翻訳したのも北丸雄二氏である。
一般にも通用するゴリゴリのジャーナリストで、オープンリー・ゲイ。北丸氏がこれまでLGBTに貢献してきたものは大きい。

ただ、最近は氏に対する批判の声も聞こえる。

それが一番大きくなったのは、去年の夏に起こったある出来事がきっかけである。詳しくはインタビューで触れているが、「隠れホモはLGBTには関係ない」の言葉は多くの人の反発を呼んだ。その後ご本人がツイッターで釈明しているが、腑に落ちない人も多かっただろう。

あの発言の真意はなんだったのか。

今回その「腑に落ちないもの」を北丸氏に面と向かってたずねてみたのは、折に触れてコソコソと氏をディスり続けてきたサムソン高橋と、書いた記事を氏に噛みつかれてヒステリーを起こしていたitaruである。

■参考記事
※北丸さんに噛みつかれた記事
君、死にたまうことなかれ〜クローゼットの若いゲイに考えて欲しいカミングアウトのこと
※北丸さんに噛みつかれた!、とヒスを起こしている対談
【サムソン高橋の「ゲスの極み放談」】ゲイや同性愛者をLGBTでオブラートする気なの?

カミングアウトしたものを元に戻して良しとするのか?ということを言いたかった

itaru(以下”I”)僕がどうして北丸さんとお会いしたかったかというと、北丸さんのおっしゃってることが、誤解されることがけっこうあるんじゃないかなあ、と。

「まあ、ツイッターだしね(笑)」

サムソン高橋(以下”S”):僕がまず聞きたいのが、LGBT内で北丸さんっていろんな批判されてきたじゃないですか。それに対してどう思ってたのかなっていう。

「実際に批判されたことって、具体的にはあんまり耳に入ってないんだよね。その辺がいけないのかもしれないけど(笑)。ツイッターのリプライでも、10人もいないんじゃないかな。他でいろいろ言われてるかもしれないけど、探さなきゃ聞こえないじゃないですか」

Sあ、僕もそうですね。ディベートだとかなうわけないから、陰でこっそりディスってました。エゴサーチで引っかからないように「北丸さん」って表記で。

「笑」

I一番波紋があったのが、去年の武藤貴也議員の騒動に関して「彼は隠れホモだから、LGBTには関係ない」ということを言いきって、ちょっとごたごたがあったんですが。あれは今振り返るとどういうことなんだろうかと。

「僕ね、『隠れホモ』という言葉を使ったとき、隠れホモの人は反論してくるはずがないと思ってたの。なぜかというと、隠れホモって反論もしない人たちだから。英語で”closet case”って言うんだけど、その人たちは隠れホモと言われても黙っているだけなんですよ。それが隠れホモの定義なんです。だから『隠れホモ』って言ったときにわーって反論してきた人はなんだろう?ってすごく不思議だったんだよね。隠れホモをかばっている隠れホモじゃない人たち』なのかなって。
『隠れホモ』って隠れてるわけだから、隠れて出てこない人たちということなのね。その人達はつまり心の中で自分のことを否定しているから、そう言われても『違う、俺は隠れホモじゃない』と思う人たちなんです。それが炎上して、僕が最後までわからなかったのが、君たちは何者?っていう。隠れホモじゃないでしょ、堂々と言ってるじゃん、匿名の場でも堂々と言ってるんだから、それは隠れホモじゃないだろ、というのが僕の中であってさ」

I日本で『隠れホモ』というと、会社や学校とか、社会における自分はクローゼットで過ごしていて、プライベートでアプリ使ったりゲイバー行ったりして活動してる人という定義だと思うんです。

「そういう人たちに言及して責めたりしたつもりはまったくなくて。そうじゃなくて、アイデンティティとして自分のことを許してない人のことを言ったつもりなんですよ」

S内なるホモフォビアというか。

「そうそう。というか、それにも気付いていない人たち。その病理に関しては、って病理なんて言葉使うからダメなんだけど(笑)、80年代のエイズの時代にすごく論考がされたんですよ。個人的なことをいかに社会的なことにするかっていう。つまり結局、僕たちはエイズをきっかけにして、表に出ないと戦えないということを学んだんだよね。そういうのが前提としてあるわけ。
で、例えば会社で隠れてたとしても、友だちに実はゲイなんだと言ったり、二丁目に飲みに出たりという行動は、その運動の方向は後戻りはしないんですよ。知り合いができたり、友だちになったり、そのことを次に知る人は誰かいるわけ。遅々としていても、広がる方向性なの。いったん出ちゃった人は、隠れホモじゃないわけですよ。その動きは止められない。戻らない。カミングアウトってのは動名詞なんだけど、現在進行形でもあるわけで。
だからあの時言ったのは、隠れホモをかばう人たちってのは、カミングアウトしたものをカミングアウトしなかったほうがいいって言おうとしている人たちなのか?ってことなんだよね」

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LGBTの中で個人的な言説はあふれている。それとは違うものを作らなきゃいけない

I『隠れホモ』の言葉の認識が違っていたんですね。日本で使う意味では、ゲイの大多数が隠れホモなんですよ。だから北丸さんが「隠れホモはLGBTじゃない」と言ったらみんなわーっと怒っちゃったっていう。

「クローゼットであることを理解すること、しょうがないよねってする言説はもうあふれてるんですよ。みんなそういう感じでなぐさめてるし、片を付けてるし、折り合いをつけてる。そのときに、クローゼットであることはしょうがなくないんだよ、出なきゃいけないんだよ、という言説を作らなきゃいけない。
例えばアメリカで言うと、人権問題では一番最初に50年代に黒人問題が出てきた、60年代には女性問題が出てきた。そういうときに、例えば黒人問題で『奴隷でいることはしょうがないよね』っていう言説は蔓延してたわけ。それを歴史的に進めるときにどうしたかというと、個人的な『しょうがないよね』というところから、一歩進んで、公のところに出なきゃいけないな、となった。公の部分の言説がない限り、個人の権利も保障されないんですよ。そういう言説を日本で作ってる人って少ないですよね。
プライベートな部分とパブリックな部分、本音と建前があって、トランプとクリントンでもそうなんだけど、トランプは本音のところを言っちゃってるわけ。でも本音っていつも正しいわけじゃないよね。それだけだと社会はどうしようもなくなっちゃう。本音と建前をすり合わせなきゃいけないわけですよ。これはプライベートとパブリックの闘い、現実と理想の闘いでもあるけれど、現実として『しょうがない』というのはあるんだけど、理想を目指して闘わなければ社会と個人との関係は良くならないし、言説を作らないと個人も闘えない。
アメリカの場合、トランプが攻撃しているPC(ポリティカル・コレクトネス)というのがあるんだけど、それもPCというのがあるから言えるんであって、人間は本音だけ、プライベートなところだけで生きていくことなんてできないじゃない。社会あってのものなんだから。
日本のゲイ・コミュニティってプライベートなところではすごく発達したわけ。それこそマツコ(デラックス)みたいなのもいればブルボンヌみたいなのもいて、個人的な言説という面ではすごく洗練を極めてますよね。高橋さんもそうだけど」

Sとんでもない(笑)。

「ものすごく個人的なところから、話芸として、パブリックなところを突っつくわけでしょ。で、それにはさ、パブリックってものがないと成り立たないわけですよ」

S思い出すのが、20年近く前の話なんですけど、当時バディで編集長の小倉(東)さんがいろいろやってたわけですね。それを当時サムソンというフケデブ専ホモ雑誌で働いていた身としては、横からちょくちょく突っついていたわけですよ。「なにが『ぼくらのハッピー・ゲイライフ』だよ」とか(笑)。そしたら小倉様から誌上でお怒りのお言葉を頂戴して。それが「土台がないところに批判は成り立たないでしょ!」というもので、私はまったく反論できなかったんですけど。

「逆にいうと、小倉東さんの言ってることに高橋さんが突っつくってのは、そういう漫才はなきゃいけないんですよ。違う次元から物事を照らさないと、言説というのは成り立たない面もあって、それによって東さんの言いたいことが立体化する。で、そういう”漫才”は言葉のプロは意識してなきゃならない」

S批評的な視点があったほうが言説は豊かになりますもんね、って自分で言って恥ずかしいな(笑)。

「プライベートな視点ってのは、究極的には『文学』ってことなんだと思う。そういうのがないと豊かにはならない。でも、政治ってのも必要なんですよ。60年代に『個人的なことは政治的なことだ』ということが言われ始めた。主婦が自分がやってる家事も政治的になり得ると気付き始めたの。それがフェミニズム運動になっていくんだけど。そういう部分がないとダメだとまでは言わないけど、人間の社会ってそういう風にして進んできたんじゃないかと思うんだよね」

Sすごくわかります。ただ、アメリカでそういう運動の流れは大前提としてあると思うんですけど、日本で成り立つのかなって単純に思ってしまうんですが。

「でもさ、今の東京レインボープライドの基になるゲイパレードって最初にやったのが20年前? 当時、すごく『パレードなんてアメリカのものだよね』『日本がアメリカの真似をしても無駄だよね』ってどれだけの人に言われたか、反対されたか。でも今はみんな楽しんでるし、いちいち文句言ったりもしない」

S日本って基本的に、ゲイシーンに限らず新しいものをはじめようとするとまず否定的な反応がきますよね。

「その人たちが個人的な領域から出ないままで何かを社会で成し遂げられるのかなって思うと、疑問なんだよね。それは『動き』にはならないからさ。それこそゲイ文学でエロティシズムの話ってのは大昔からいろいろあるわけじゃない。それで結果的に何かを成しえたか。ゲイ的に性欲は処理できたかもしれない。でもそれはどこかに行けたのか? 内うちにこもるだけで、社会的にはむしろ、後退した部分もあったかもしれない。さげすまれたり、陰に隠れる方向に行ったかもしれない。
もちろんそれを否定するわけじゃないんだけど、美輪(明宏)さんの時代から、表に出てる人はみんな『私は私よ』と言ってたわけ。ゲイという集合体としてではなく、個人として片を付けてきたんです。そういう個人的、私的な物言いはもう十二分にあるわけですよ。だからこそ今は、それとは違う言説を作んなきゃいけないと思うんです。それが、小倉(東)さんの言ってた『土台』ってやつなんだろうね。もちろん、「私」と「公」のその二つがなきゃいけないんだけど。だから、文句言ってくる奴らに対しては『それはわかってるから、文句言ってる暇あったらお前はお前で自分のやりたいことをやってりゃいいじゃん』って思ってる」

I(笑)そういう人たちは、自分で何かをやりたくもないんだと思いますよ。

「やりたくなきゃやりたくないで結構なんだけどさ、そしたらちゃんと漫才しましょうよ、と思うんだよね。ちゃんとした話芸を使って、オチまで見据えてさ。じゃなきゃ発展しないじゃない」

I中途半端に文句言ってくる人たちは、日本で言うところの『隠れホモ』だと思うんだけど、波風立てたくないんですよ。「このままでいいのに」という感じで。

「ただ、そういう人たちも10年経ったらまた違うこと言ってると思うんだよね。10年前にぐちゅぐちゅ言ってた連中も今はみんな(カム)アウトになってたりするじゃない。おれ、そういうのずっと見てきたから。隠れてた連中も、みんな出てきてるもんね。時代って、そういう風にしか進まない。戦争や独裁が始まらない限り」

Sアウトの基準は緩くなりましたよね。僕も顔出しで発言するなんて10年前は考えられなかったけど、今はテレビに顔出してしょうもないこと言ったりして(笑)

「まあ、良くも悪くもネットやSNSのせいでもあるよね。顔出ししてゲイを名乗るハードルがずいぶん低くなった。昔は、日本でもアメリカでもそうだったんだけど、ゲイバーでよく見てる顔でも、名前なんてわかんなかったもんね。エイズの時代だけど、誰かが来なくなっても、死んだのかも死んでないかもわからない。入院してたとしても、見舞いにも行けなかった。手立てがないんだから。ホームパーティーなんてやってる人間なんていなかった。今は違うよね。誰だか知ってるし、気軽に家に呼んだりする。それってすごい変化だと思う」

S俺はフケ専だから切実だけど、昔は既婚の人が本当に多かったですからね。自分が20歳くらいの頃、40歳以上のゲイの大多数は結婚してた。辛かっただろうなあ。

「幸せならそれでいいけど、辛かったりもしたんでしょうね。でも今は結婚を強制される世の中でもないじゃない。だからね、時代はそういう風に流れていくんですよ。カミングアウトも、一人に言えば二人目にも言うことになる。これはムーブメント、動きなわけですよ。そういう流れが動くことなんです。
さっき言ったように、パレードに反対してた人が、パレードに加わったり、会場で楽しんだり、カミングアウトにしても『日本でそういうのはそぐわないよね』とガチガチに文句言いまくってた人たちがいかに今幸せそうなのかを知ってる。僕に文句言ってる人たちも、おそらく1020年経ったらまた違ったこと言ってるんだろうなと思うわけですよ。人間ってのは静止したままでいられないですから。これは僕にも言えることなんですけどね」

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ゲイ・コミュニティの中で批判することだけはやめよう、ってことは自分の中で決めている

S話を戻しますけど、最初に言われた武藤議員いるじゃないですか。報道が正しかったと仮定して、彼は北丸さんが言うところの『隠れホモ』ではなくて、表向きは素知らぬ顔で、陰でコソコソやっているっていう、ある意味日本のオーソドックスなゲイを代表してたと思うんですよ。

……まあ、あれに代表されてもたまんないんだけどね(笑)。まあ僕も、別に武藤君個人を隠れホモだと糾弾したかったわけじゃなくて……誤解される書き方だったのは確かだね」

IS(笑)

「彼本人はどうでもよくて、彼に代表される、なんていうんだろう、陰の、ずっとドロドロしてるところで、こうやって……もっと陽に当てようよ、カビてるだろお前、ていう」

I言わんとすることはよくわかります(笑)。

「その辺に対して誰も何も言わないんだったら、言うしかないだろっていうね。僕ね、もっと嫌なのがああいう形のアウティング、あれこそを糾弾しなきゃいけないと思うんだけど、それを許してしまう社会の構造ってのがあるわけじゃない。そこにも怒っているわけ。あれがスキャンダルになっちゃうっていうことに」

S武藤議員をきっかけにして、いろんな思いがあふれたけど、140字では収まり切れなくてちょっと言葉足らずになったのがあの事件の真相だったんですね(笑)

Iお話を聞くと今になって腑に落ちるんですけど、「隠れホモはLGBTじゃない」という発言は、隠れホモは永遠に隠れてるわけだから、LGBTの権利も何も手に入れることはできないよ、ていう単なる事実を述べただけなんですね。
あと、北丸さんが言うカミングアウトって「自分を受け入れる」っていう意味が最初にあるじゃないですか。日本で大多数のゲイにとっては「友達や家族に告白する」ってのがカミングアウトの意味なんですよ。そこにも齟齬があったんじゃないかと思うんですけど。

「カミングアウトの話だけど、『秘密のケンミンショー』だったかな? 『カミングアウト!』とか言うじゃない。ずっと昔に初めてそれを見た時にやだなあ、と思ったんだけど、日本のバラエティでそういう口調ってのはずっと続いている」

I糸井重里が昔そういうバラエティ番組作ってましたね。一般的にも「秘密を打ち明ける」という意味でカジュアルに使われてます。

「カミングアウトはもともと”coming out of the closet”なんだけど、それは全身の話なんですよ。秘密をしゃべるってことじゃなくて、体全部をクローゼットから出してくるという話なんですよ。内緒を打ち明けるんじゃなくて、体ごと陽の当たる場所に出てくるという意味なんですよ」

Sもともとの、英語本来の意味で。

「本来の意味で。重い話かもしれない。重大な話なんですよ。重大な話かもしれないという前提で、皆カムアウト、カムアウトって言っているんです」

S自分で自分を認めましょう、っていう意味なんでしょうか。

「あのね、自分が何者であるかなんかわからんのですよ。わかるのは、自分が何者でありたいか、何者であろうとするのか、ってことなんです。つまり、自分がどういう状態でいたいかっていう決意の話なんだよね

Sカムアウトと言えば、itaruさんが書いた記事に北丸さんが嚙みついて、それをitaruさんが俺に愚痴ってっていう(笑)事件があったんだよね。

I僕は「カミングアウトという重たい荷物を渡しても相手は困るかもしれない」ということを書いたら、北丸さんは「相手が重い荷物と思わないからこそ簡単に他人に言っちゃうんだ」と反論されて。

「みんながitaruさんの言ってる風に思ってるじゃない。そういう言説が当たり前でしょ。でも、違う場合もあるんだよ、ということを言いたかったんだよ」

I北丸さんは今までたくさん書いてきたから、当たり前や前提の話は「今さら」と思われるかもしれないですけど、元ゲイ雑誌編集者の自分としては、自分がゲイだと気付いて初めてこういう記事を読む読者っていうのは常にいるわけだから、そういう人のことをいつも考えなきゃいけないな、というのがあって。

「それはね、お互い役割分担だと思う。一人で100万人を相手できるわけないんだから。そういう人がいるべきだし、違う人もいるべきだし、プライベートを掘り下げる人も、政治を語る人も、横で茶々入れる人もいるべきだし、耳に痛いことを言う人もいるべきだし。そういう議論の場所はなきゃいけないと思ってる。物事はいろいろ次元の違うところから見なくちゃいけない。全部を見ることなんてできないけどね。その努力はすべきだと。それがない限り、ただのケンカになっちゃう。ゲイ・コミュニティの中でケンカしたってしょうがないじゃない。
僕が自分の中で決めてきたのは、少なくともゲイ・コミュニティの中の人たちは批判しないようにしようと。ゲイの個人も、団体も、まだ権力なんか持ってないから、まずは権力のあるところをこそ批判しようと。だから世間のほうを批判しなきゃいけないな、と決めてきたんです。隠れホモは批判しましたけどね(笑)」

S()北丸さんはLGBTの中では権力だという感じもしますけど。

「年だしね()。それに、言葉を発することができるということ自体が権力だし。ただ、僕は強い人は必要だと思ってる」

Sそれに対して批判する人も。

「そう。役割分担でね。で、僕はいろんな言葉がある中で、〇〇をするな、という抑圧や禁止ではなくて、〇〇をしろ、という励ましや提言の形で批判していきたいと思ってるんだ」

(後編につづく)
LGBTのえらい人に会ってみようシリーズ:1 北丸雄二氏に話を聞いてみる(後編)

「僕は簡単に友だちだと思っちゃうほうなんで。『会って話すとわかるよね』っていうのが基本としてあるんですよ」

という言葉を北丸氏は人懐っこい笑顔でおっしゃっていた。
録音したものを文章にまとめると、ちょっと傲慢だったり偉そうに聞こえるかもしれないが、実際の氏はとにかくチャーミングで人好きがする。「邪気がない」という言葉がぴったりである。事実、私たちは二人とも、初めてお会いしてその人柄にノックアウトされていた。こいつには勝てねえ……

長いインタビューなので前後編になる。後半では、北丸氏のパブリックな部分ではなくてプライベートな部分、とりわけ自身のカミングアウトにまつわる話についてうかがってみたいと思う。
(文責/写真 サムソン高橋)

北丸雄二
毎日新聞記者、中日新聞(東京新聞)ニューヨーク支局長を経て1996年に新聞社を退社。現在はフリーランスとしてニューヨークでコラム、時事評論、芸術評論など多岐にわたって著述活動を続ける。日米を軸とした社会、政治報道に関わる一方で、20年以上前から日本でただひとり継続的・体系的に世界のLGBT関連ニュースを提供してきたジャーナリスト。
北丸雄二のNew York Jounal “Daily Bullshit”