福山雅治 主演、大根仁 脚本・監督の新作映画「SCOOP」が2016年10月1日より全国公開中。
この映画を観る前は、セクシャル・マイノリティ的にはまったく関係がない作品だと思っていました。公開初日のTOHOシネマズ新宿で観賞中は、映画としてのアラや細かい部分が気になってイライラしていたのですが、途中から「これはゲイ映画として観ると、面白いのかも?」と考えるようになりました。
そこを確認しようと、翌日TOHOシネマズ新宿で再見。
「これはゲイ映画だ」と個人的に確信を得ました。
そこでここでは、映画「SCOOP」はゲイ映画なのか? というテーマでこの作品をご紹介しようと思います。
この記事では、かなり激しくネタバレします。映画「SCOOP」を、なるべく事前知識が無いままに楽しみたい方は、観賞後に読まれることをお薦めします。
警告しましたよ。
ここから先は、遠慮なくネタバレしますからね。
覚悟してお読みください。
極私的な「SCOOP」の納得出来ない点
まずはざっと”あらすじ”をご紹介しましょう。
週刊誌「SCOOP」の元エースカメラマンで、現在は”中年パパラッチ”と蔑まれている都城静(福山雅治)。久しぶりに「SCOOP」に復活した静に対し、やり手副編集長・横川定子(吉田羊)は新米記者・行川野火(二階堂ふみ)をつけOJT(オン・ジョブ・トレーニング)をさせるよう依頼。静のセクハラ&スパルタ教育により、野火は一人前の記者として成長していくのだが……。
という物語の軸に、
静が「元奥さん」と呼ぶ定子との関係(「婚姻関係はない」らしい)と、当初は「最低!」と嫌っていた野火が静に惚れていく。
という恋愛模様が描かれ、さらに、
静と腐れ縁の友人・チャラ源(リリー・フランキー)や、定子と対立するもう一人の副編集長・馬場ちゃん(滝藤賢一)
との関係もからんでいきます。
まずは初見時にアラと感じてイライラした部分から。
主軸となる、静と野火のエピソードと、静と定子のエピソードに関しては、正直かなり違和感を覚えました。ここはこの記事の主なテーマではないので、ざっくりと列挙します。
1)野火(二階堂ふみ)のキャラクターを活かしきれていないのでは?
・冒頭、社内で部署移動になった際、チュッパチャップスを咥えて新しい部署に入って行くという非常識な行為をさせる。そこまでさせるのだから、このチュッパチャップスが野火というキャラを描くための大切な小道具かと思いきや、その後一回も画面に登場しない理由が分からない。
・元ファッション誌希望だっただけのことはあり、豊富なファッション知識で変装している女子アナを見抜く。静が野火に関心を示すきっかけになる、いわば彼女の特殊能力ともいうべきものをその後活かさなかった理由が分からない。
2)野火(二階堂ふみ)が失礼な女にしか見えない
・散々、仕事を手伝ってもらいながらチャラ源を「本物のゴキブリ」呼ばわり
・その直後に、静の言う事を聞かずに起こしまったトラブルからチャラ源に救ってもらったにも関わらず、きちんと礼も言わない
・その後、チャラ源と静が六本木で楽しむ様をストーカーのように追いかけて隠し撮り
・さらに、くたくたになって寝入る静の部屋にズケズケ入り込み助けてくれた礼を言い、肉体まで提供しようとする(←礼をするならチャラ源にすべき)
3)果たして野火(二階堂ふみ)の成長物語になっているのか?
一見、彼女の成長物語っぽく見えるのだが、クライマックスに向うに従い疑問点が頻出する。
・自分で「やりたい」と主張した現場検証の取材現場、目の前の取材対象に対して集中すべき状況で、カメラの使い方を教えるために接近する静に一々ドキドキしてうっとりする表情を浮かべる。(←意識が取材対象にではなく、男(静)に向いているとしか感じられない)
・クライマックスの現場でカメラを持っているにも関わらず、なぜ警官の死体を見てもシャッターを切ろうとしないのか理解できない。
・よく考えてみれば、野火が静の言う事を聞かずに車で待機しなかったがために、悲劇は起きたのではないか、という大きな疑問。
・静がその身を以てスクープ記者魂を教え込んだにも関わらず、そして自分で決定的瞬間の写真を撮影しながら、「原稿は書けません」と新米の女の子モードに逆戻り。(←結局、まったく成長していないわけ?)
4)パブリックイメージを1mmたりとも逸脱しない吉田羊
・やり手で強気でちょいと徒な姐さん、という20年前なら浅野温子が演じていた役柄の再生産。何の破綻もないが、そこに驚きも発見もない。
5)脚本・演出的に納得いかない部分が多すぎ
・パパラッチが乗る車にしては自己主張がありすぎでは? 「パパラッチ待機中」とでも言わんばかりの目立ちぶりは、おかしいでしょう。
・花火に関する部分。家庭用の花火にしてはあまりにも盛大過ぎてリアリティが無い。派手な画が欲しかったのは分かるが、花火を加えたカーチェイスのくだらなさは白けるばかり。
・福山雅治にあそこまで薄汚れた中年親父役をやらせながら、野火とのエッチ場面になると、いきなりアイドルのイメージビデオかと思うような真っ白いライティングとソフトフォーカスで現実感の無さ過ぎるキレイな仕上がり。野火が下着すら外そうともしないガードの堅さもリアリティなし。
・しかも次のショットでは男物のパジャマを着ているという、手あかが着きすぎた展開。
・現場検証の撮影場面、あそこまであからさまにカメラ設置していたら警察官は気づくだろう、という疑問。特に福山が乱入した時点で、その背景に大きなレンズと野火が見え過ぎている。なぜ警察官はそれに気がつかないのか?
・その現場検証場面での遠藤賢一にやらせる行動は驚愕のリアリティの無さ。
・その現場検証の現場において、実質的な部分はともかく、対外的な責任者は媒体の副編集長であるはずだが、なぜだか警察に長く拘留されたのはフリーカメラマンであり、当の副編集長が出迎えにくるという違和感。(←責任とるのが責任者なのだから、その現場における対外的なトップの遠藤賢一が長く拘留されないとおかしい)
・違和感ありまくりのイメージビデオ的エッチ場面が、ラストに新米女の子モードに戻った野火を奮起させるためのちょっといいセリフのために作られたのか、と判明したときの絶望感。
………………、ざっくり、と言いながら膨大に書き連ねてしまいました。
しかし、この「SCOOP」は、ここまでダメな部分、違和感を覚える部分があるにも関わらず、観点を変えるとものすごく面白い作品なのです。
静(福山雅治)はホモソーシャルを好むヘテロなのか?
「ホモソーシャル」という言葉をご存知でしょうか?
Wikipediaによると
恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。
体育会系的な先輩・後輩のイチャイチャした感じとか、地元の幼なじみ同士のイチャイチャした感じとか、ああいうものを想像してください。
この映画の中での都城静(福山雅治)は、ホモソーシャルを心地いいと感じる男として描かれています。
冒頭に出て来るホテトル嬢、定子、野火と女に対しては基本冷たくそっけない静ですが、「SCOOP」編集部の年下男子たちに対してはフレンドリーかつフランクで優しく魅力的な兄貴キャラになります。
そこまでならば、ミソジニーとかホモフォビアが伴う典型的なホモソーシャルを好むヘテロなマッチョ男的な文脈なのですが、作中の2人の男たちとの関わりはその文脈を逸脱していきます。
1人は腐れ縁の友人・チャラ源(リリー・フランキー)、
もう1人は副編集長・馬場ちゃん(滝藤賢一)です。
静(福山雅治)とチャラ源(リリー・フランキー)の濃密な関係
具体的な言葉や、映像でははっきり見せませんが、リリー・フランキー演じるチャラ源はヤク中の設定。
静「チャラ、ほどほどにしろよ」
源「静ちゃんもね」
という会話から、静もまたヤクに関わっていたであろうことが推測できます。
そして、はっきりは説明されない2人の過去のトラブルもドラッグがらみであろうし、そこでチャラ源が罪を被ったのだろう、という推測もできます。
その経緯を知っているであろう定子は「チャラ源を切れ」と迫り、静は「自分にとって大事な人だから切れない」と拒絶します。
それは、過去のチャラ源がしてくれたことに関しての贖罪ゆえである、と受け取ることもできます。
しかし、画面に写る2人の姿は、そんな贖罪関係にはまったく見えないのです。
チャラ源は静と一緒にいる時が嬉しくて仕方が無いというオーラを発し続けます。もしチャラ源が犬だったら、ずっと尻尾をブンブンと振り続けているのが見えるくらいに嬉しそうです。
実際、「久しぶりに2人で六本木デートしよう」というセリフを発します。
また静も女性に対する時とは一変、チャラ源といる時は気持ちを許し相好を崩しっぱなしです。
雨の中、相合い傘でベタベタする場面は、まるで恋人同士。
風俗で、2人並んでソファーに座り、半裸のネエちゃんをそれぞれ膝抱きしながらも、気持ちはネエちゃんにではなくお互いに向っていて思わずキスする場面は、この2人の関係性を端的に示しているといってよいでしょう。
静とチャラ源の間に肉体関係があるかどうかは分かりませんが、少なくとも静と肉体関係がある女性(定子)でも入り込めないくらいの強い愛情で結びついているのは確実。
どんなに頑張ったとしても入り込めない2人の絆を前には、嫉妬するしかないのも当然。
定子が「チャラ源を切れ」と迫るのも、野火がチャラ源を「本物のゴキブリ」と罵り、かつトラブルから救出してもらった後の意味不明の行動も、すべて嫉妬からくるものと考えると納得できるのです。
馬場ちゃん(滝藤賢一)の濃密な片想いこそ切ない
売上低迷する「SCOOP」をセクシーグラビアやラーメン等の暇ネタで支えようと頑張る副編集長の馬場ちゃんは、静を引き戻してスクープ誌として勢いを取り戻そうとする副編集長・定子の対立相手として描かれます。
しかし、後半の現場検証取材時に、実は新人記者の頃に静と組んでいたことが明かされます。
そして、静との精神的な距離が他の編集部員より遥かに濃密なことが判明していきます。
しかし、馬場ちゃんは”ツンデレ”な性格のようで、他の編集部員の前では静に対してつっけんどんな態度をとろうとします。
でも、その”ツン”な仮面はボロボロと剥がれて行きます。
・現場検証取材時に静に命じられて頑張ってしまう行為。
・警察から釈放された静を1人で迎えにいく。
・クライマックスの事件現場に定子が向おうとするのを制止して自ら向っていく。
・野火に対して、静と過去に過ごした時間を慟哭しながら吐露する。
精神的にガッツリ繋がっているチャラ源と静の関係性と比べると、馬場ちゃんと静の間にはそこまでの絆が感じられません。
静 ⇔ チャラ源
静 ⬅ 馬場ちゃん
もちろん静は馬場ちゃんのことを可愛いと思っているでしょうが、チャラ源に対する強烈な想いとは比較のしようがないでしょう。関係性としては馬場ちゃんの片想いという図式がしっくりときます。
初見では見逃していたのですが、映画の前半、静が編集部に怒鳴り込んできて定子と打合せスペースで話しているときに、その2人を観ている馬場ちゃんの顔が一瞬インサートされます。
監督も、この時点から馬場ちゃんに目を向けさせるよう計算はしていたのかもしれません。
惚れた相手には、深い絆を結んでいる相方がいた。
こういう状況に陥ったことがある人なら、馬場ちゃんの心情が深く理解できるはずです。
そして彼に感情移入していくと、クライマックスで現場に居た馬場ちゃんの前であの惨劇が起きてしまったことの辛さは胸に突き刺さるに違いありません。
前半と同じく、ここでも惨劇の後に馬場ちゃんの顔を一瞬インサートさせるべきでした。それがあれば、その後の定子との激論から、野火の前での慟哭の重みがもっと大きく感じられたのに、残念です。
かなり歪んだ形ですがチャラ源と静の愛は成就し、一方、馬場ちゃんの想いは永遠に宙ぶらりんのまま成就することはありえません。
「永遠の絆」と「永遠の片想い」。
どちらが幸せなのでしょうね?
映画としてのアラは多々ありますが、1人の魅力的な男を取り巻く2人の男の愛の形を描いた作品として観るならば、映画「SCOOP」は実に興味深い作品です。