「たかが世界の終わり」ゲイ息子の帰還で綻びる家族の均衡

オープンリー・ゲイの若く美しき天才映画監督と呼び声高いグザヴィエ・ドランをご存知ですか?
「当たり前でしょ」
「全作品見てます!」
という方、はい、この記事は読まなくて結構です。

「その名前、なんとなく聞いたことあるけど……」
とか
「正直、初めて聞いた」
という貴方に向けて、グザヴィエ・ドランと新作映画「たかが世界の終わり」をご紹介してまいります。

実は僕自身も「名前は知っていたけどグザヴィエ・ドラン未経験」という状態でした。
そこで新作「たかが世界の終わり」を見た上で、
過去作「わたしはロランス」「トム・アット・ザ・ファーム」「マミー」を連続鑑賞。
さらにもう一度「たかが世界の終わりで」を見直しました。
数日間グザヴィエ漬けになった僕が感じた彼の作品の魅力を、下記のメニューで記していきます。

①共感できる主題設定と、歌詞で補われる不足描写
②笑っちゃうほど分かりやすいベタな演出
③言語や地理などカナダならではの特異性
④ゲイ息子の帰還で綻びる家族の均衡「たかが世界の終わり」

 

①共感できる主題設定と、歌詞で補われる不足描写

実際に映画を見る前は
「カフェとか好きな高感度でオシャレな若い子が好きな映画でしょ」
「映像が気取っていて、思わせぶりで難解な感じなんじゃないの」
とか、結構ひどい先入観を持っていました。
ところが、実際に見てみるとグザヴィエ・ドラン作品のイメージは随分変わりました。

確かに気取ってはいますよ。
高感度でオシャレな若い子が好きそうなのも事実です。
でもね、思わせぶりでも難解でもないんです。

むしろ、分かりやすい。
ええ、ものすごく分かりやすいのです。

僕が見た4作品に共通しているテーマは
「他者とのコミュニケーションの難しさ」
です。

これ誰もが実感できることじゃないですか?
「誰とだって、コミュニケーションに何の問題もないけど」
と本気で言える人がいたら、その人は神レベルで鈍感か、もしくはサイコ? と疑ってしまいます。

実感値が高いテーマが中心に据えられていることで、キャラクターに対する興味を持ったり、共感を覚えやすくなります。
グザヴィエ・ドラン作品に共通する、一見クセの強そうなキャラクターや設定にも関わらず、見始めるとスムーズに世界に没頭できるでしょう。

とはいえ、ストレートな作劇術ではなく、ある種、舞台(ストレートプレイ)的な脚本ゆえに設定やキャラの心情など説明を省かれている部分もあります。
見る側に「推し量る」ことを要求するタイプの作品に苦手意識を持つ方も少なくないと思います。

しかし、グザヴィエ・ドラン作品は大丈夫です。
どの作品も、冒頭とエンディング(ものによっては中盤でも)に流れる物悲しげな歌の歌詞で、必要な情報(設定や感情)が全て補えます。
もうビックリするほど丁寧に、細かい感情を全て語ってくれるのです。
(まるで「歌謡映画かよ」と笑いそうになるほど分かりやすいのですが、この話題は若い方には通じませんね、失礼。)

ですからグザヴィエ・ドランの映画を観るときは、冒頭とエンディングに流れる歌の歌詞を、じっくり読んでほしいのです。

 

②笑っちゃうほど分かりやすいベタな演出

グザヴィエ・ドラン作品といえば、その映像の美しさでも定評があります。
特に「わたしはロランス」で見せた、スカイブルーの真冬の空からヴィヴィッドな色合いの乾燥済みの洗濯物が降り注いでくる場面(←見てない方には「?」でしょうが、乾燥した洗濯物を降らせるというのが、この映画の主人公カップルにとっての象徴となっています)は印象的です。

映像美に拘る監督、というと難解なアート寄りの作品だと思われそうですが、先述のようにグザヴィエ・ドラン作品は非常にわかりやすいのです。
そして、美しい映像で臆面もないほど分かりやすい、いわばベタな演出を見せてくれます。

「わたしはロランス」では、気持ちの行き違いから疎遠になってしまい凍りついた愛情が、あるきっかけで氷解する瞬間、ヒロインの頭からナイアガラの滝くらいの勢いで大量の水が流れ落ちてきます。
「マミー」では、主要キャストたちの精神的にも状況的にも追い詰められた窮屈さを表現するかのように画面自体が1対1のアスペクト比(Instagramのような正方形)なのですが、作中で二度、希望が心に宿る状況(一度は作中の現実で、もう一度は空想)の時だけ画面が左右に広がっていきます。

最高に分かりやすいでしょう?
新作「たかが世界の終わり」の終盤でも、臆面もないほどはっきりと、状況を象徴するような演出の仕掛けがなされています。

 

③言語や地理などカナダならではの特異性

グザヴィエ・ドランという名前。
作中で使われる言語がフランス語。
「たかが世界の終わり」のキャストは全員、有名なフランス人俳優。

ということで、グザヴィエ・ドラン作品を未見の方の中では、フランス映画だと思い込んでいる方もいらっしゃるでしょうが、この監督はケベック州で生まれた正真正銘のカナダ人です。

ご存知のように、カナダは英語圏とフランス語圏に分かれた国です。

カナダに関して詳しくなかったので、少し調べてみました。
言語に関しては、
母語が英語・・・約57%
母語がフランス語・・・約21%
という割合。
両言語を話せる人は国民全体の約18%しかいません。
フランス語を母語とする人は、カナダの中ではかなりマイノリティーだということです。
しかし、グザヴィエ・ドランが生まれ育ったケベック州の公用語はフランス語で、人口の約8割がフランス語を母語としています。

そのため、グザヴィエ・ドラン作品はフランス語をメインに使い、フランス人俳優を起用するので、フランス映画だと思い込まれるのも当然です。

しかし、いわゆるフランス映画的な印象とは大きく異なります。
それは、アメリカ合衆国と国境を挟んで接していることが影響しているのではないかと感じました。
政治的にも経済的にも文化的にも、あまりも影響力が強く、かつワガママな超大国と隣り合わせに暮らし続けているカナダの国民の複雑な心境は、グザヴィエ・ドランの作品でも随所に描かれます。
それはある種の憧れであったり、侮蔑の対象であったりと、非常に複雑です。

正直なところ、僕自身、カナダに対してはぼんやりしたイメージしか抱いていなかったのですが、2016年に記事にしたジャスティン・トルドー首相とそのLGBT施作の件があった上で、グザヴィエ・ドラン作品に触れたことで、俄然興味が湧いてきました。
カナダに関しては、もっと情報を入手し、映画や文学に触れることで、その国民性を知りたいと考えています。

ちょっと話が横道に逸れましたね。
フランス語を使ってフランス人俳優を起用しながらも、フランス映画的なイメージとは異なるのは、言語的にも地理的にも特徴のあるカナダならではの理由があると感じたのです。

「たかが世界の終わり」の中では、フランス人俳優であるヴァンサン・カッセル(主人公の兄)が、主人公がどこかステレオタイプなフランス映画的会話に陥ろうとすることを徹底的に非難する場面が登場します。
キャラクターの心情的にはキツい状況なのですが、フランス映画風な状況をフランス人役者が非難しているという構造を考えると笑えてくるという奇妙で印象的な場面です。

 

④ゲイ息子の帰還で綻びる家族の均衡「たかが世界の終わり」

グザヴィエ・ドランの新作映画「たかが世界の終わり」も、一見、気取っていて思わせぶりで難解なアート寄りの作品かと思わせながらも、家族間でのコミュニケーションの壁を描いていて、とても分かりやすく感情移入できる仕上がりです。

父が亡くなり、母と兄夫婦、妹が同居する家に、10数年ぶりにゲイの息子が帰ってきます。
学生時代に起きた何らかのトラブル(はっきりとは描かれないがゲイ関連のトラブル)が理由で、故郷を離れ都会で暮らしている戯曲家の弟。
彼がいきなり帰省してきたのは、自分に死期が迫っていることを家族に伝えるためでした。

しかし、現実から逃避し続ける母、周囲を威圧し抑えつけることでしかプライドを保てない高圧的でありながら実は精神的に脆い兄、染色体異常で変わり者として生きることを選んだ妹、(多分カナダの英語圏の生まれで)フランス語が不得手な兄嫁、という家族たちに対して言葉を失っていく主人公。
何せ、彼の家族は一筋縄ではいかない曲者ばかりなのですから。

息子の久々の帰還を奇矯なほどにはしゃいで迎える母。
冒頭で彼女が用意する料理が、どれも不自然なほど円形にデコレートされる場面から不穏な空気が流れ、彼女の躁状態かと思えるはしゃぎ方の裏には恐れが隠されています。

冒頭からどうしようもない苛立ちが伝わって来る兄。
知的で成功している弟に対してのコンプレックスなのか、眼前に弟が存在すること自体が許せないかのように家族たちに当たり散らす兄とは、会話をするのも困難です。

今いる場所から逃れたくて、でも諦めている妹。
子供の頃から離れて暮らしているゲイである二番目の兄をある種神聖化して、変わり者としてしか生きられない自分の理想像を押し付ける妹。

考えていることがよく分からない兄嫁。
この家族の中では最もまともではないかと思われる兄嫁は、フランス語が不得手なため決定的に意思の疎通が困難であり、何を考えているのかよく分からない存在。

曲者ばかりの家族でありながら多少なりとも取れていた均衡が、弟が帰還した途端にあちこち綻び始めていきます。
日曜の遅めの朝から昼下がりにかけて、久々に家族全員で囲むランチからデザートの間に剥き出しになっていく醜い感情の迸り。
主人公は「己に迫る死期」を家族に伝えることができるのか。

一見静謐そうでありつつも、密かに手に汗握るサスペンスフルな感情のやり取りが楽しめる99分。
フランス人の手練れの役者たちの演技合戦を楽しみつつ、御年27歳という若き監督の映像美と分かりやすいベタな演出が同居した独特のスタイルを堪能してください。

グザヴィエ・ドラン作品にまだ触れたことがない貴方、是非この作品を入り口に彼の世界を覗いてみてほしいです。

最後に、この作品はオリジナルではなく原作となる舞台用の戯曲があります。
日本でも翻訳されたものが出版されています。
原作ではタイトル「JUSTE LA FIN DU MONDE」を「まさに世界の終わり」と訳されているのですが、映画のタイトルは「たかが世界の終わり」です。
単語一つの選び方で、その意味するところが大きく変わるこのタイトル。
僕は見終わった後で、映画のタイトルを「たかが」と訳した方のセンスを賞賛したいと感じました。

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たかが世界の終わり
JUSTE LA FIN DU MONDE

監督・脚本:グザヴィエ・ドラン
原作:ジャン=リュック・ラガルス[まさに世界の終わり] 出演:ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、ヴァンサン・カッセル、ナタリー・パイ
配給:ギャガ
カナダ・フランス合作/2016年/99分
新宿武蔵野館 ヒューマントラストシネマ有楽町 YEBISU GARDEN CINEMA他 全国順次公開

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いたる

LGBTに関する様々な情報、トピック、人を、深く掘り下げたり、体験したり、直接会って話を聞いたりしてきちんと理解し、それを誰もが分かる平易な言葉で広く伝えることが自分の使命と自認している51歳、大分県別府市出身。LGBT関連のバー/飲食店情報を網羅する「jgcm/agcm」プロデューサー。ゲイ雑誌「月刊G-men」元編集長。現在、毎週火曜日に新宿2丁目の「A Day In The Life」(新宿区新宿2-13-16 藤井ビル 203 )にてセクシャリティ・フリーのゲイバー「いたるの部屋」を営業中。 Twitterアカウント @itaru1964