Sponsored by 南アフリカ観光局
「アフリカ」と聞くと、治安が悪い、いろいろな伝染病がある、発展途上である、といった想像をする人が多いのではないだろうか。実際に僕が南アフリカに行ってくる、と友人に話した時、やはり「病気に気をつけてね」「危険な目に合わないようにね」と言われることがほとんど。
しかし!
そんなイメージを払拭するかの南アフリカ旅行。今回から数回に分けて、色々な観点から発見した魅力を存分に紹介します。
本記事では、南アフリカ共和国の中でも随一の素敵スポットのケープタウン、日中の旅の魅力を紹介し、次回はナイトライフの魅力をお伝えします。
ケープタウンの顔、港町V&Aウォーターフロント
まずはケープタウンの顔、V&Aウォーターフロント。
ヨーロッパの港のような佇まいをしているV&Aウォーターフロントは、アフリカであるということを感じさせない。かつてイギリス領だった際、湾岸開発を行ったヴィクトリア女王の息子の名にちなんで、正式な名称はヴィクトリア&アルフレッド・ウォーターフロントであることからもその所以がうかがえる。
巨大なショッピングモールや観覧車、小さなマーケット群に大きな舞台などが立ち並ぶ。
休みの日にはパフォーマーや市内の学校のブラスバンド部の演奏などで賑わっていた。
この店はモール内の装飾屋。南半球に位置するここでは、夏のクリスマスが近づいていた。
こちらの虫はモパニュウェ(Mopane)という虫。アフリカのサバンナに生息する虫であり、香ばしく、佃煮のような食感だった。
初めての昆虫食に顔面崩壊が起こっているけれども、案外おいしい。
まさかの初体験に手ホゲもしている(右)
大阪まで14330km。
「終電に間に合ったよ」の、あの名曲もここからなら終電というか最終飛行機だし、なんなら2日かかるのかと思いを馳せる。
近そうでまだ遠い大阪。地球の裏側。
こちらはウォーターシェド。アートやクラフトなど、ものづくりにまつわる店舗やギャラリー、ワークショップ施設が一体となっている建物だ。毎日のようにイベントや展示会も開催されています。
こちらが建物の2階に位置するワークショップ施設。
使用済みTバッグを使用したアート作品の販売を行うオリジナル・ティーバッグ・デザイン。
こちらはケープタウン近海で取れる白身魚のキングクリップ(Kingklip)はタラっぽい肉厚の白身魚。
アートとクラフト、「表現する」ことが身近に
ケープタウンはこれまで紹介したように、非常にアートやものづくりの文化が身近にあり、生活を豊かにしてくれる一つの要素としても非常に重要な役割を果たしている。
ギャラリーも点在し、休日には街中を歩くだけで、そこかしこでアート作品やクラフト作品を販売している。
こちらは、チャンドラーハウス(Chandler House)。陶器や絵画、インテリアなど暮らしに結びついたアート作品が並ぶ。
http://www.chandlerhouse.co.za/
彼がゲイ当事者でオーナーのマイケル・チャンドラーさん。イケメン。
彼はアートや自分の作品を通じて表現することが好きで、「素敵なものを素敵だと伝えたい」という。小さくて何でもでき、自由な街であるケープタウンが大好きだと言っていた。
歴史の爪あと – 労働者と差別の歴史
15世紀に始まった大航海時代、南アフリカ共和国はオランダの植民地時代だった時代がありました。東南アジアから連れられた労働者が解放されたのちに住んでいたボカープ(Bo-Kaap)地区。彼らは教育の機会を与えられず、識字能力がなかったために、数字や文字でなく色で自宅を識別していたのだそう。
そのカラフルな街並みは、見知らぬ街で暮らす元労働者の人たちの、日常を豊かにする努力の結果だったのではないだろうか。また、その理由には諸説あるようで、解放され自由になった喜びを表し自宅をこのように塗ったという説もあるそう。
現在これらの家屋は一般に貸し出され、観光地としても非常に有名な場所となっている。
筆者もご多分に漏れず、何に対して笑っているのかわからないですが、ここぞとばかりにエア笑顔をしてみました。
次はロベン島へ。
ケープタウンの海岸からロベン島までは40分ほどかかる。運がよければホエールウォッチングも。
夏ではあったが、大西洋側の寒流が流れ込む西岸は比較的涼しい風が吹き込み、船上は少し肌寒かった。
笑顔ですが、寒い。めちゃ寒い。隣は現地のガイドでゲイのキングスビー。
南アフリカ共和国は、アフリカの中で同性婚ができる唯一の国であるが、憲法においても性的指向による差別の禁止が明記されている。こうしたLGBTの権利運動が身を結んだのは、1994年に全人種が参加した選挙によって選ばれた故ネルソン・マンデラ氏の任期の間であった。
ネルソン・マンデラ氏はアパルトヘイト撤廃に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した人物でもあるが、LGBTの支援にも関わっていた。
これが、ネルソン・マンデラ氏が国家反逆罪の名目で27年間収監されたロベン島である。
この島の刑務所自体はもう閉鎖され、観光地化しているのだが、島では、ネルソン・マンデラ氏と共に入獄していた元囚人が実際に獄中はどんな生活であったかという話を聞かせてくれる。
大航海時代の喜望峰
喜望峰へはケープタウンから車で1時間半程度。
向かう途中の海岸は白い砂浜に大通りの向かいのレストランやショップなど、リゾート地顔負けの景観であった。今回は行けなかったが、近辺にはヌーディストビーチもあるようだった。
道中、野生のダチョウやバブーンなどの動物を見ながら、涼しい風を浴びた。
このように車にバブーンが乗ってくるくらい野生。すでにサファリ気分。窓を開けて可愛がろうものなら、引っ掻かれ、ものを盗まれることもあるのだとか。
そして喜望峰へ到着。
喜望峰は1488年、大航海時代の先駆けとして、ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが到達したことでも知られている。その後ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航路を発見してからは、東洋をつなぐ重要な経由地点になっている。
ケープタウンはそうした大航海時代の補給港として、発展した土地である。
実際、ワインの生産が盛んであったり、白人の割合も多く、紹介した街並みのように、オランダ、イギリスが入植していた頃の名残が多く垣間見える。
こちらがケープポイント。実際にバルトロメウ・ディアスが到達した地点であるとされている。オスマン帝国が地中海の制海権を得ていた当時のインド航路の最短距離は、この喜望峰を経由するのが最短であったために、「希望の岬」と名付けられ、それが「喜望峰」となったそう。
眩しい。
やっぱり眩しい。
世界の海洋航路の経由地点であるケープタウン
このように世界の交流地点になっていたケープタウンだからこそ、様々な文化が混ざり合い、ひしめき合いながら発展を続けてきたケープタウン。
実際、様々な場所でアジア人である筆者自身がゲイであることを話してきたけれども、それに対する市民の反応は「そうなんだ」それ以上でも以下でもありませんでした。それだけ、多様性が身近に存在し、自分の知らない、自分とは違う人がいることがすでに当たり前になっているのだと感じました。
次回は自由の街ケープタウンが、いかにアート/クラフトとの親しみがあるか、また、ゲイナイトライフについても触れていきたいと思います。